ビルマの竪琴

 12月2日、わたしは「朝日新聞」の15面を開いて目を瞠った。小さい記事ではあったが、「遺骨調査、年度内にも」であった。
 「太平洋戦争で多くの日本兵が犠牲になったミヤンマーで、日本政府が年度内にも30年ぶりに広範囲の遺骨を調査する見通しになった」とのニュースである。民主化が進み、「外国人の立ち入りが緩和され、遺骨の情報が寄せられたのがきっかけになった」という。
 「1944年にあったインパール作戦でインドに進軍した10万人の旧日本軍が英軍に敗退」、3万人が命を落とし、「この作戦を含めた同国内の遺骨は9万1千人分が収容されたが、82年以来、大規模な調査はされておらず、4万6千人分の遺骨が収容されていない」という。
 これからの調査は「厚生労働省がミヤンマー政府と協議して取りかかる方針」だという。「調査を進めるのは、遺骨の情報が寄せられた北部のザガイン管区、西部のチン州、東部のカヤー州の3カ所」で、「見つかった遺骨は身元が分かれば、ふるさとに帰ることになる」と報道されていた。
 12月1日、妻の買い物の付き添いを終えて家に帰り、居間のテレビのスイッチを入れた。画面はなにやら映画のようであった。よく見ているとだんだんと若いころに見た記憶が蘇ってきた。『ビルマの竪琴』の画面であった。
 ビルマの山野に眠っている日本兵の遺骨をこのままにして日本へは帰れないと決心した水島上等兵は僧侶となり祖国に帰る戦友に別れを告げるラストシーンは涙を堪えることが出来なかった。竪琴で「埴生の宿」を弾き終えて、真っ直ぐに引き返す僧侶水島上等兵の後ろ姿が忘れられない。
 ミヤンマーのチン州で遺骨の先行調査をしている「ミヤンマー/ビルマご遺骨帰国運動」という民間団体の井本勝幸さん(49)は「『一人でも多くのご遺骨が見つかればうれしい』と話している」と、新聞は報じているが、いまだに4万6千人分の遺骨が収容されていないという事実に暗澹とした思いである。『ビルマの竪琴』はまだまだ終わらないのである。


菅江真澄、旅のまなざし

 10月4日から一ケ月間、秋田県全域を会場として、「地域文化の再発見と継承、地域活性化」を目的とした「第29回 国民文化祭・あきた2014」が開催されている。イベントの多さに目を瞠るが、わたしは予定通り10月11日、この国文祭を記念して開催された、県立博物館と菅江真澄研究会共催の講演会に参加した。

 講演会の演題は「真澄のまなざしを考える〜あきた遺産の再評価〜」である。講師は東京学芸大学教授の石井正己先生。ここではとりあえず、講演の内容項目のみを紹介する。


 1 ナマハギと南の文化

 2 氷下漁業と北の文化

 3 臼と言葉と人間

 4 景観とジオパーク


以上の項目について、一時間三十分にわたって解説された。

 県立博物館では、今回の国文祭の記念事業として、「菅江真澄、旅のまなざし」の特別展を開催し、併せて関連の図録を編纂発行している。この図録には講演会の講師をつとめられた石井正己教授の論考も掲載されている。菅江真澄の生涯の著作を通じ「あきた遺産の再評価」として、県民広く手に取って読んでほしいと思った。



 

 


倉敷大原美術館展と県南探訪

 羽後交通観光(株)のバスツアー企画のうち、美術館展と増田まんが美術館、内蔵巡りのコースに妻と参加した。<  9月7日、秋田駅東口を8時40分に出発した。今回は参加者が多く、40名、過去4回のツアーで一番多いということであった。気候もよくなってきたのが共通の要因となったと思われた。  秋田南インターから高速秋田道に入り、横手市の「秋田ふるさと村」着が9時40分。入館してからは、それぞれ自由行動で、近代美術館の大原美術館展や、ふるさと村の工房をめぐり、見学した。昼食はおすすめの「よこて焼きそば」、評判どおり大変うまかった。  13時30分、「秋田ふるさと村」出発。14時、増田町到着。ここでバスを降りて内蔵めぐり、まんが美術館見学の自由行動となった。乗務員から地図とパンフを貰い各自自由に歩き出した。  増田町の公開されている歴史的建造物は、14家屋で、そこで生活されている方たちがおられるので、通常一日の公開は、4家屋程度で交代して行っているとのことであった。  それにしても、この増田の内蔵の素晴らしさをいままで伝承し続けてきた増田商人の強さを改めて感じた。江戸時代より藩公認の市として始めたという朝市も、現在まで連綿と続いていて、地図に朝市通りが明示されている。
 江戸時代から明治に入り、増田の商人たちは、この朝市を商業基盤として活動の活性化に取り組んだという。増田銀行(現在の北都銀行の前身)を創設させ、さらに増田水力電気会社(発電)や、増田製陶会(陶器)、長坂商店(味噌醤油)などの会社も設立され、この傾向は大正時代になっても続き、吉乃鉱山(明治37年操業)の採掘量の増加などもあり、商業活動は加速的に活発化したという。  こうした増田商人たちの息吹と成功の証を今に伝えるのがこの「増田の内蔵」ではないだろうか。  いずれにしても非常に感動的な町並みであった。萬福寺前を通り、まんが美術館まで歩いて15分、まんが美術館を見学してバスに乗車、国道に出て十文字の道の駅で買い物、16時10分出発、横手から高速秋田道に入り、秋田駅東口着17時20分、ツアーは無事終了した。

美感遊創

 サントリーのサプリメント「セサミン」を定期購入して飲んでいる。そのとき一緒に送られてくるのが小冊子『美感遊創』である。これがなかなかの内容で面白い。今回は、「水辺の浪漫 日本橋めぐり」が特集されていた。普段見ることの出来ない部分の写真が掲載されていて興味深く拝見した。
 また、この小冊子のもう一つ楽しい記事が裏表紙の「今月のことば」である。今月は、

  どの路でも
  足の向く方へゆけば
  必ず其処(そこ)に
  見るべく
  聞くべく
  感ずべき獲物(えもの)がある

                 国木田独歩

が、紹介されていた。この言葉は独歩の随筆『武蔵野』の一節からの引用であった。その一節は、次の部分である。

 「武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向くほうへゆけばかならずそこに見るべく聞くべく、感ずべき獲物がある。」

 わたしはこの文章をよんで歌人の今は亡き上田三四二の『朝日新聞』(2011年1月23日号)の「天声人語」で引用されていた一説を思い出した。三四二が散策時に作歌したと言う「歌をつくろうとは思わない。歩くだけでいい、だがそういう道の上で、ふと、歌が落ちてくる……その言葉を唇(くち)にのぼらせ、吟味し、よさそうだと胸にしまい込む」と、随筆に記しているという。

 わたしは二人の文章を読んで、そこに共通している想いを、今、あらためて感じた。サントリーの小冊子もなかなか、いいことを載せてくれる。これも、「セサミン」を愛飲している効用であろうか。

歌人小高賢さんを偲ぶ

 角川の「短歌」7月号で2月に急逝した歌人小高賢さんの追悼記事が掲載されている。岡井隆さんの「小高賢さんの霊に」の一文には感動した。また、写真なども懐かしく拝見した。わたしは、小高さんとは面識はないが忘れることの出来ない思い出がある。
 小高さんが読売新聞の秋田版文芸欄「よみうり文芸」の短歌の選者を2010年1月ら一年間担当された時期、わたしは下手な短歌を投稿して小高さんの選を受けた。一年間投稿して佳作に二首、入選が七首という成績であった。
 佳作二首のうち、次の一首は、小高さんの選評によって私の作歌に大きな指標を与えてくれたものとして大切にしているものである。わたしは、歌ができないときなどこの小高さんの選評を読んで支えられている。
 それは、2010年11月4日の新聞に掲載された。

 夕光の空にかがやく熟れ柿を仰ぎて遊佐の里の道ゆく

 (評) 真赤に実った柿。「遊佐」という地名が効果的な自然詠。おそらく柿の向こうには、雪を被っている鳥海山が想像できる。堂々とした自然詠。

 小高さん、選評ありがとうございました。これからもこの言葉を大切にして歌に励んでゆきます。
 ご冥福をお祈りいたします。

桜桃忌

 「秋田魁新報」の週刊連載エッセイ「季の観覧車」(栗木京子)も、半年を過ぎようとしている。早いものである。
 6月15日から6月21日までのエッセイのタイトルは「桜桃忌に寄せて」。そういえば6月19日は小説家太宰治の忌日であった。昭和23年6月13日、玉川上水で入水自殺、19日遺体が発見された。太宰に「桜桃」という小説があることから6月19日の忌日を「桜桃忌」と呼び、俳句歳時記の夏の季語として多くの文人に愛され親しまれてきた。
 わたしが始めて太宰治全集の第一巻『晩年』を手にしたのは昭和23年9月1日八雲書店発行のもので、自殺から数か月しか経過していなかった。定価320円であった。同年の9月30日には、第4巻『おしゃれ童子』が定価300円で発行された。いまから65年前のことであるが、わたしには忘れることの出来ない、事件であった。
 ウオーキングをやりだして東京の大会にも参加するようになり、玉川上水の遊歩道を歩く機会も増えて、太宰治の入水場所も何回か目にした。そんなときに次の歌が生まれた。

    太宰治の入水場所のしるべとて金木町産の黒き石立つ

 三鷹駅周辺の路地には太宰治のウオークのコースなども紹介され、訪れるウオーカーも増えだしてきていたその頃の歌も紹介したい。

    跨線橋にたたずみ津軽を偲びたる太宰治ををりをり想う
    三鷹駅南口からぶらぶらとインバネス着て太宰の行きし
    足しげく太宰が通いし酒店あと文学サロンとなりて華やぐ

                                       

梅が咲いた

 まだ風は冷たいのに日差しは、だんだん春めいてきて庭の水仙が咲き始め、カタクリの小さい芽が顔をだした。そして、梅の木の花が咲き、白モクレンの花芽がいっせいにふくらみ始めた。我が家の庭にもやっと本格的に春がやってきた。
 わが家の庭に春一番を告げてくれるのは、なんといっても三椏の木である。もう今は満開に近いが、小さな花芽がまだ膨らんでいるものもある。歌人の成瀬有(故人)の三椏の歌が浮かんでくる。

  夕の陽にみつまたの花咲きけぶる甦りくるいのちの明かり
                            成瀬有『流離伝』

 一冬を縁側に並べて置いた君子蘭の四つの鉢もそれぞれ咲き始めた。すごい力でである。はやく外に出たいようという感じであるが、外はまだ寒いよ、と言い聞かせている。

 昨日は好天にめぐまれ、郊外を歩いた。太平山の山並みは、まだ雪におおわれているが、広がる田んぼには耕耘機の音がひびき、農作業も始まったようである。

 終わりに妻の短歌を紹介して、この文章を閉じる。

  あたたかき風春をのせ三椏の枝ゆらしつつ庭通りすぐ
                            ナオ子

冬から春へ

 三月も、今日で終わり、明日からいよいよ4月、早いものである。
 昨日の30日は、妻の母・ハナさんの37回忌で、午後から娘の車でお墓のある能代市へ向かった。生憎の天候で雨降りとなり、能代へ着いた頃は、風も強くなってきたが、義妹夫婦と合流してお墓へ向かった。「風の松原」と道を一本へだてての墓地である。風も少しやわらぎ、なんとか蝋燭と線香を供えた。わたしが般若心経を唱え、みんなで祈り、お参りをした。
 帰りは、義妹夫婦の家に寄って、自慢のコーヒーを入れてもらい、モンブランと一緒に馳走になり、夕方6時に秋田へ帰ってきた。もう雨は、小降りになっていた。
 話は変るが、「秋田魁新報」に、2013年4月から連載されていた、俳人露月ついての文章、「天地蒼々」が、この30日の掲載で終わりになった。51回の連載だった。また、「朝日新聞」の連載、「古き仏たち」も、2012年4月以降、3月29日の百回の連載で終わり、身辺、にわかに寂しくなった。
 4月以降の各紙に期待したいと思う。

詩人吉野弘氏を悼む

 詩人の吉野弘さんが一月十五日、静岡県富士市の自宅で亡くなったことが新聞各紙で報じられた。享年87歳であった。「秋田魁新報」にも一月二十一日、詳細な記事が掲載されたが、コラム欄「北斗星」には、秋田市と吉野弘さんとの関わりについて貴重な記事が掲載されていた。
 吉野弘さんは詩人として、山形、埼玉、千葉、新潟県などの小中校の校歌を多数手掛けており、秋田県では、昭和59年4月1日開校の、秋田市立御野場中学校の校歌を作詞されている。当時の教頭先生が旧知の仲だった吉野さんに依頼したものである(「北斗星」より)。
 ここにその校歌を紹介したい。

   御野場中学校・校歌     作詞 吉野弘  作曲 高田三郎
  
  荒ぶる 雄物川を治め
  芦原を 美田となせし
  わが祖(おや)たちこそ 誇りなれ
  われら今
  新しき未来 拓かむと
  共に学び 共に鍛う
  羽ばたけ 光るペン われら
  明日に翔(かけ)
  御野場中学校の友 われら

  さやけき 太平山を仰ぎ
  波響く 海の香を聞く
  わが故郷(ふるさと)こそ 床(ゆか)しけれ
  われら皆
  新しき生命(いのち) 試さんと
  広く学び 強く鍛う
  羽ばたけ 光るペン われら
  明日を目指す
  御野場中学校の友 われら

 吉野さんは完成した校舎の屋上から田んぼの広がりを眺めたり、雄物川の堤防を歩いて、校歌の構想を練ったという。雄物川の治水にみる先祖の苦闘をしのび、遠く太平山に思いをはせ、日本海の波の音に故郷を思う。秋田の風土に若者たちの未来を思う。すばらしい校歌である。
 吉野さんは、若いころ、高村光太郎の詩『道程』を愛唱していたという。ここにその詩を紹介して、ご冥福をお祈りしたい。

   道程        高村光太郎
  
  僕の前に道はない
  僕の後ろに道は出来る
  ああ、自然よ
  父よ
  僕を一人立ちにさせた広大な父よ
  僕から目を離さないで守る事をせよ
  常に父の気魄を僕に充たせよ
  この遠い道程のため
  この遠い道程のため 


     

新しい年を迎えて

 新しい年を迎えて、私は八十八歳、米寿である。今年も気を引き締めて歌作りに精を出そう。毎年、楽しみにしている『秋田魁新報』の土曜文化欄のエッセイの筆者が、歌人の栗木京子さんに決まり、連載が始まった。
 エッセイのタイトルが「季(とき)の観覧車」。わたしはこのタイトルを見て、名歌と言われている栗木さんの歌を思い浮かべた。次の一首である。

  観覧車回れよ回れ想い出は君には一日(ひとひ)我には一生(ひとよ)     

 連載一回目の題は「元日のうた」で、早速、万葉集の大伴家持の和歌が紹介され、新年を迎える楽しい文章が始まっている。
 私は年間を通して栗木さんのエッセイや歌に親しめる貴重な時間を活用して自分自身の歌作りに取り組んでいきたい。米寿を迎える年の所感である。

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