倉敷大原美術館展と県南探訪

 羽後交通観光(株)のバスツアー企画のうち、美術館展と増田まんが美術館、内蔵巡りのコースに妻と参加した。<  9月7日、秋田駅東口を8時40分に出発した。今回は参加者が多く、40名、過去4回のツアーで一番多いということであった。気候もよくなってきたのが共通の要因となったと思われた。  秋田南インターから高速秋田道に入り、横手市の「秋田ふるさと村」着が9時40分。入館してからは、それぞれ自由行動で、近代美術館の大原美術館展や、ふるさと村の工房をめぐり、見学した。昼食はおすすめの「よこて焼きそば」、評判どおり大変うまかった。  13時30分、「秋田ふるさと村」出発。14時、増田町到着。ここでバスを降りて内蔵めぐり、まんが美術館見学の自由行動となった。乗務員から地図とパンフを貰い各自自由に歩き出した。  増田町の公開されている歴史的建造物は、14家屋で、そこで生活されている方たちがおられるので、通常一日の公開は、4家屋程度で交代して行っているとのことであった。  それにしても、この増田の内蔵の素晴らしさをいままで伝承し続けてきた増田商人の強さを改めて感じた。江戸時代より藩公認の市として始めたという朝市も、現在まで連綿と続いていて、地図に朝市通りが明示されている。
 江戸時代から明治に入り、増田の商人たちは、この朝市を商業基盤として活動の活性化に取り組んだという。増田銀行(現在の北都銀行の前身)を創設させ、さらに増田水力電気会社(発電)や、増田製陶会(陶器)、長坂商店(味噌醤油)などの会社も設立され、この傾向は大正時代になっても続き、吉乃鉱山(明治37年操業)の採掘量の増加などもあり、商業活動は加速的に活発化したという。  こうした増田商人たちの息吹と成功の証を今に伝えるのがこの「増田の内蔵」ではないだろうか。  いずれにしても非常に感動的な町並みであった。萬福寺前を通り、まんが美術館まで歩いて15分、まんが美術館を見学してバスに乗車、国道に出て十文字の道の駅で買い物、16時10分出発、横手から高速秋田道に入り、秋田駅東口着17時20分、ツアーは無事終了した。

美感遊創

 サントリーのサプリメント「セサミン」を定期購入して飲んでいる。そのとき一緒に送られてくるのが小冊子『美感遊創』である。これがなかなかの内容で面白い。今回は、「水辺の浪漫 日本橋めぐり」が特集されていた。普段見ることの出来ない部分の写真が掲載されていて興味深く拝見した。
 また、この小冊子のもう一つ楽しい記事が裏表紙の「今月のことば」である。今月は、

  どの路でも
  足の向く方へゆけば
  必ず其処(そこ)に
  見るべく
  聞くべく
  感ずべき獲物(えもの)がある

                 国木田独歩

が、紹介されていた。この言葉は独歩の随筆『武蔵野』の一節からの引用であった。その一節は、次の部分である。

 「武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向くほうへゆけばかならずそこに見るべく聞くべく、感ずべき獲物がある。」

 わたしはこの文章をよんで歌人の今は亡き上田三四二の『朝日新聞』(2011年1月23日号)の「天声人語」で引用されていた一説を思い出した。三四二が散策時に作歌したと言う「歌をつくろうとは思わない。歩くだけでいい、だがそういう道の上で、ふと、歌が落ちてくる……その言葉を唇(くち)にのぼらせ、吟味し、よさそうだと胸にしまい込む」と、随筆に記しているという。

 わたしは二人の文章を読んで、そこに共通している想いを、今、あらためて感じた。サントリーの小冊子もなかなか、いいことを載せてくれる。これも、「セサミン」を愛飲している効用であろうか。

歌人小高賢さんを偲ぶ

 角川の「短歌」7月号で2月に急逝した歌人小高賢さんの追悼記事が掲載されている。岡井隆さんの「小高賢さんの霊に」の一文には感動した。また、写真なども懐かしく拝見した。わたしは、小高さんとは面識はないが忘れることの出来ない思い出がある。
 小高さんが読売新聞の秋田版文芸欄「よみうり文芸」の短歌の選者を2010年1月ら一年間担当された時期、わたしは下手な短歌を投稿して小高さんの選を受けた。一年間投稿して佳作に二首、入選が七首という成績であった。
 佳作二首のうち、次の一首は、小高さんの選評によって私の作歌に大きな指標を与えてくれたものとして大切にしているものである。わたしは、歌ができないときなどこの小高さんの選評を読んで支えられている。
 それは、2010年11月4日の新聞に掲載された。

 夕光の空にかがやく熟れ柿を仰ぎて遊佐の里の道ゆく

 (評) 真赤に実った柿。「遊佐」という地名が効果的な自然詠。おそらく柿の向こうには、雪を被っている鳥海山が想像できる。堂々とした自然詠。

 小高さん、選評ありがとうございました。これからもこの言葉を大切にして歌に励んでゆきます。
 ご冥福をお祈りいたします。

桜桃忌

 「秋田魁新報」の週刊連載エッセイ「季の観覧車」(栗木京子)も、半年を過ぎようとしている。早いものである。
 6月15日から6月21日までのエッセイのタイトルは「桜桃忌に寄せて」。そういえば6月19日は小説家太宰治の忌日であった。昭和23年6月13日、玉川上水で入水自殺、19日遺体が発見された。太宰に「桜桃」という小説があることから6月19日の忌日を「桜桃忌」と呼び、俳句歳時記の夏の季語として多くの文人に愛され親しまれてきた。
 わたしが始めて太宰治全集の第一巻『晩年』を手にしたのは昭和23年9月1日八雲書店発行のもので、自殺から数か月しか経過していなかった。定価320円であった。同年の9月30日には、第4巻『おしゃれ童子』が定価300円で発行された。いまから65年前のことであるが、わたしには忘れることの出来ない、事件であった。
 ウオーキングをやりだして東京の大会にも参加するようになり、玉川上水の遊歩道を歩く機会も増えて、太宰治の入水場所も何回か目にした。そんなときに次の歌が生まれた。

    太宰治の入水場所のしるべとて金木町産の黒き石立つ

 三鷹駅周辺の路地には太宰治のウオークのコースなども紹介され、訪れるウオーカーも増えだしてきていたその頃の歌も紹介したい。

    跨線橋にたたずみ津軽を偲びたる太宰治ををりをり想う
    三鷹駅南口からぶらぶらとインバネス着て太宰の行きし
    足しげく太宰が通いし酒店あと文学サロンとなりて華やぐ

                                       

梅が咲いた

 まだ風は冷たいのに日差しは、だんだん春めいてきて庭の水仙が咲き始め、カタクリの小さい芽が顔をだした。そして、梅の木の花が咲き、白モクレンの花芽がいっせいにふくらみ始めた。我が家の庭にもやっと本格的に春がやってきた。
 わが家の庭に春一番を告げてくれるのは、なんといっても三椏の木である。もう今は満開に近いが、小さな花芽がまだ膨らんでいるものもある。歌人の成瀬有(故人)の三椏の歌が浮かんでくる。

  夕の陽にみつまたの花咲きけぶる甦りくるいのちの明かり
                            成瀬有『流離伝』

 一冬を縁側に並べて置いた君子蘭の四つの鉢もそれぞれ咲き始めた。すごい力でである。はやく外に出たいようという感じであるが、外はまだ寒いよ、と言い聞かせている。

 昨日は好天にめぐまれ、郊外を歩いた。太平山の山並みは、まだ雪におおわれているが、広がる田んぼには耕耘機の音がひびき、農作業も始まったようである。

 終わりに妻の短歌を紹介して、この文章を閉じる。

  あたたかき風春をのせ三椏の枝ゆらしつつ庭通りすぐ
                            ナオ子

冬から春へ

 三月も、今日で終わり、明日からいよいよ4月、早いものである。
 昨日の30日は、妻の母・ハナさんの37回忌で、午後から娘の車でお墓のある能代市へ向かった。生憎の天候で雨降りとなり、能代へ着いた頃は、風も強くなってきたが、義妹夫婦と合流してお墓へ向かった。「風の松原」と道を一本へだてての墓地である。風も少しやわらぎ、なんとか蝋燭と線香を供えた。わたしが般若心経を唱え、みんなで祈り、お参りをした。
 帰りは、義妹夫婦の家に寄って、自慢のコーヒーを入れてもらい、モンブランと一緒に馳走になり、夕方6時に秋田へ帰ってきた。もう雨は、小降りになっていた。
 話は変るが、「秋田魁新報」に、2013年4月から連載されていた、俳人露月ついての文章、「天地蒼々」が、この30日の掲載で終わりになった。51回の連載だった。また、「朝日新聞」の連載、「古き仏たち」も、2012年4月以降、3月29日の百回の連載で終わり、身辺、にわかに寂しくなった。
 4月以降の各紙に期待したいと思う。

詩人吉野弘氏を悼む

 詩人の吉野弘さんが一月十五日、静岡県富士市の自宅で亡くなったことが新聞各紙で報じられた。享年87歳であった。「秋田魁新報」にも一月二十一日、詳細な記事が掲載されたが、コラム欄「北斗星」には、秋田市と吉野弘さんとの関わりについて貴重な記事が掲載されていた。
 吉野弘さんは詩人として、山形、埼玉、千葉、新潟県などの小中校の校歌を多数手掛けており、秋田県では、昭和59年4月1日開校の、秋田市立御野場中学校の校歌を作詞されている。当時の教頭先生が旧知の仲だった吉野さんに依頼したものである(「北斗星」より)。
 ここにその校歌を紹介したい。

   御野場中学校・校歌     作詞 吉野弘  作曲 高田三郎
  
  荒ぶる 雄物川を治め
  芦原を 美田となせし
  わが祖(おや)たちこそ 誇りなれ
  われら今
  新しき未来 拓かむと
  共に学び 共に鍛う
  羽ばたけ 光るペン われら
  明日に翔(かけ)
  御野場中学校の友 われら

  さやけき 太平山を仰ぎ
  波響く 海の香を聞く
  わが故郷(ふるさと)こそ 床(ゆか)しけれ
  われら皆
  新しき生命(いのち) 試さんと
  広く学び 強く鍛う
  羽ばたけ 光るペン われら
  明日を目指す
  御野場中学校の友 われら

 吉野さんは完成した校舎の屋上から田んぼの広がりを眺めたり、雄物川の堤防を歩いて、校歌の構想を練ったという。雄物川の治水にみる先祖の苦闘をしのび、遠く太平山に思いをはせ、日本海の波の音に故郷を思う。秋田の風土に若者たちの未来を思う。すばらしい校歌である。
 吉野さんは、若いころ、高村光太郎の詩『道程』を愛唱していたという。ここにその詩を紹介して、ご冥福をお祈りしたい。

   道程        高村光太郎
  
  僕の前に道はない
  僕の後ろに道は出来る
  ああ、自然よ
  父よ
  僕を一人立ちにさせた広大な父よ
  僕から目を離さないで守る事をせよ
  常に父の気魄を僕に充たせよ
  この遠い道程のため
  この遠い道程のため 


     

新しい年を迎えて

 新しい年を迎えて、私は八十八歳、米寿である。今年も気を引き締めて歌作りに精を出そう。毎年、楽しみにしている『秋田魁新報』の土曜文化欄のエッセイの筆者が、歌人の栗木京子さんに決まり、連載が始まった。
 エッセイのタイトルが「季(とき)の観覧車」。わたしはこのタイトルを見て、名歌と言われている栗木さんの歌を思い浮かべた。次の一首である。

  観覧車回れよ回れ想い出は君には一日(ひとひ)我には一生(ひとよ)     

 連載一回目の題は「元日のうた」で、早速、万葉集の大伴家持の和歌が紹介され、新年を迎える楽しい文章が始まっている。
 私は年間を通して栗木さんのエッセイや歌に親しめる貴重な時間を活用して自分自身の歌作りに取り組んでいきたい。米寿を迎える年の所感である。

この頃思うこと

 10月に入って季節もかわり、気持ちもなんとなく落ち着いてきたような感じで、朝に読む新聞記事にも、ゆっくりと目を通せるようなこの頃である。
 10月1日の朝日新聞の「この星を守るのは」と題した、「美しい星 つながる未来」をテーマにした「朝日地球環境フォーラム2013」の特集記事であった。「異常気象にどう向き合い、地球規模の温暖化対策でどう手を取り合えばいいのか。最前線で活躍する世界の専門家らが語り合った」もので、非常に貴重な内容であった。
 わたしが特に感動したのは、元サッカー日本代表中田英寿さんのトークショーの記事であった。
 中田さんは、「世界を旅した後、47都道府県を訪ね歩いて」、「残るは北海道と青森、秋田の3道県のみだ」という。日本を旅することになったのは、「『日本の文化について聞かれ、日本を知らないと気づいた』からだ」そうだ。「身近な土や水に目を向け、『その土地の自然や環境を理解することで豊かになるのではないか』」と結んでいる。

 スポーツの秋、10月3日から今年の日本一を決める日本女子オープンゴルフ選手権が始まり、四日間の激戦を制したのは、宮里美香選手。3年ぶり2度目の優勝であった。最終18番、決まれば優勝という、見ているわれわれもしびれるような、7メートルのスライスライン、ボールはそのラインをしずかに滑るようにころがりカップに消えた。しばらくぶりに見た感動のシーンであった。
 6日の日本女子オープンの陰にかくれるような、男子のコカ・コーラ東海クラシック最終日。片山晋呉選手がプレーオフを制して、5季ぶりの優勝を飾った。通算27勝目。
 片山選手は、「ゴルフアーとしての名声を手に入れた後、『燃え尽き症候群』に陥った」という。5年間、勝ちがなかったがその間、胸にしまって頑張ってきた言葉があったことを語っている。
 「『灰になってはいけない。小さくてもいいから炭でいなさい。炭なら再び燃えるはずだ。焦らずに準備だけしておきなさい』
 『4年前ですね。中島(常幸)さんでした。感謝しかないです』と、片山はしみじみと振り返る。」(10月7日付「朝日新聞」)
 実に感動的な記事であった。

男鹿・一ノ目潟の「年縞」

 男鹿半島の一ノ目潟で、5月から始まっていたボーリングによる「年縞」調査が6月末で終了した。湖底から約112メートルまで掘り進めたところ、「年縞」が、国内で最も深い約60メートルに達していることが分かった。過去5万〜6万年の間に形成されたと考えられ、これまで国内最深とされていた福井県三方五湖の一つ水月湖の約46メートルを超えたが、「年縞」の形成期間は、約7万年の水月湖の方が長いとみられている。
 「年縞」は、毎年春先から発生する植物プラクトンの死骸などが白い層となり、夏から冬に積もる土砂が黒い層として木の年輪のように順番に積み重なって形成される。一ノ目潟の場合、年間の堆積量は1ミリ程度、「縞」の一本、一本を数えることで、どの時期にどんなものが湖に入ってきたのかを一年単位に調べる事が出来ることから、周辺の植生、森林の変遷、気温、水温、海面の高さの変動、、洪水や地震の発生までも知ることができる貴重なデータである。
 江戸末期の紀行家、菅江真澄がこの一ノ潟を訪れたのが、文化七年(1810)4月12日、そのときの思いを日記『男鹿の春風』と図絵に残している。
 その日記から一ノ目潟の展望までを抜粋してみる。
 「さながら春のような心地がして、鋤台山の峡をわけ出て、蓼沼の平のひらから二ノ目潟を望み、戸賀の浦の根太島、塩戸のはなれ磯にある宮島を眺めて、芝生に時のうつるまで休んだ。ふたたび大平に来て一ノ目潟を展望した。水の面がたいそうひろく、その深さははかり知れないという。」
 真澄が男鹿半島を旅していたころ、地球は「小氷期」と呼ばれる寒冷な時代だったという。国際日本文化研究センターで、今回の「年縞」を分析した結果、「1810年ごろの男鹿半島は現在よりも平均気温が2度低く、夏場を中心に降水量がすくなかった」ことがわかったという。また、真澄の図絵からは、一ノ目潟の水位が下がり湖岸が露出したことがはっきり分かり、「年縞の分析データーとピタリ一致する」とし、真澄の自然を見る観察眼に驚いているという。
 わたしも図書館に行って、真澄の図絵を拡大コピーしてもらってきて、眺めているが、一ノ目潟の水面がだんだんと青く澄んでいるように見えてくる。周辺は現在よりも木々が少なく、「年縞」に含まれる花粉の分析結果では、この時代は樹木がまばらな「疎林風景」が広がっていたという。この一枚の図絵からいろいろなことが教えられ、あらためて真澄の凄さを感じた。 

calendar
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30      
<< April 2017 >>
sponsored links
selected entries
categories
archives
recent comment
recommend
links
profile
search this site.
others
mobile
qrcode
powered
無料ブログ作成サービス JUGEM