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  • 2019.02.20 Wednesday
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シルバーウイークの旅

 今回の旅は、20日から22日まで山形県米沢市から南陽市赤湯温泉までのゆったりした旅程であった。20日秋田発9:12、仙台、福島で乗り換え山形新幹線で米沢へ、12:54の到着であった。道ずれは、秋田から私たち夫婦と末娘、福島で合流した東京の長女夫婦の5人である。
 早速、駅前の「米沢牛」の食堂をおとずれたが何処も長い列、あきらめてホテルを目指す。荷物を置いて近くの食堂「花膳」でおそい昼食。ホテルで休憩したあと米沢城跡周辺を訪れることにした。ホテルのすぐ近くに狭い道があり、案内板に「武者道」(むしゃみち)とあった。この道は下級武士たちが帯刀せず、忍んで買い物をする際に使用したという幅の狭い道で、今歩いても当時が偲ばれる。
 夕刻ホテルを出て「武者道」を通り抜け大通りへ。県社通りの九里学園高校前を通り米沢城の本丸へ向かう。信号を渡りいよいよ参道に入る。上杉神社のお濠に架かる「舞鶴橋」を渡り上杉神社の正面へ。この橋は石造りのアーチ橋で、長さ5メートル、幅7メートルで、地元高畠産の凝灰岩で作られ、完成が1882(明治15)年、となっている。史料がなく石工の名前などはわからないが、置賜地域には米沢市や南陽市高畠など身近な場所に石切り場があり、多くの石造アーチ橋がつくられていて、南陽市宮内地区の石工吉田善之助の名前がよく知られているので「舞鶴橋」も吉田さんか、その門弟によるものではないかと推察される。この橋で特に気になったのが親柱、アーチ橋本体と関わりのない考証で作製され、形は溶岩塔のように思われた。米沢観光ガイドブック「よねざわ」の10ページに全景写真が載っている。この橋は国登録有形文化財になっている。
時間が遅く境内に入れず拝礼して引き返し物産館でお土産品などを見る。再び参道へ出て、門東町通りの信号を渡り右折して夕食の場所「吉亭」へと向かう。夕空に遠く遙かに「兜山」を展望できた。
 夕食の場所「吉亭」は通りに面した古い庭園のある料亭であった。案内には、「江戸末期より近年まで<津の国屋吉貞>の屋号で絹織物織元を営んでいた。大正年間に建てられた館と、江戸後期からの庭園、栗の老木など、当亭の自慢の米沢牛・山懐料理とあわせ、ごゆるりとお楽しみ下さい」とあった。米沢牛のすき焼きと日本酒で、米沢の夜を堪能した。
 21日、9時半ころホテルを出発。今日は、米沢城跡の一角に建っている上杉博物館で、「米沢藩医家の系譜」の特別展を見る。米沢藩にこのような医家の振興に尽くしていたことを初めて知った。一冊の分厚い図録を手にして米沢藩の医学の歴史に思いを馳せる。上杉鷹山の顔写真は忘れられない。
 14時38分、米沢をあとにし、今日の宿泊地、赤湯温泉に向かった。赤湯着14時53分。駅には迎えの車が来てくれていた。赤湯温泉大通りを1・7キロほどで旅館へ到着。大通りに面した桜湯山茱萸である。江戸後期開業の古い温泉であった。木造つくりの部屋は落ち着きがありゆっくりした雰囲気であった。大浴場もよかったが、各部屋にある露天風呂も最高であった。夕食は、蔵王牛の炭火焼に舌鼓を打ち、山形の日本酒で歓談した。
 翌朝は、朝食後、桜で有名な烏帽子山公園の周辺を散歩した。御神坂口の階段の上の方に階段を立体交差する石造りのアーチ橋が見える。この橋は南陽市宮内の石工吉田善之助さんの弟子である川合兄弟 の作と言われている。
寺沢口から路地に入り温泉大通りに出て旅館へ戻る。準備を整えていよいよ出発。旅館から思いかけず車中で食べるおにぎりの差し入れがあった。車で赤湯駅へ。
 22日赤湯発13時10分の「つばさ84号」に乗車、福島で下車し、東京行きを見送ってから、「やまびこ51号」で仙台へ、さらに「こまち21号」に乗り換えて秋田へ、17時13分無事到着した。
 お天気にめぐまれ、楽しい思い出いっぱいの旅であった。万々のシルバーウイークの旅であった。


スキマの植物

 5月4日発売の「読売新聞」の記事、「編集手帳」をなにげなく読んで大いに感激した。それは、それは、思いがけない一冊の本の紹介からはじまっていたからだ。その本は、塚谷祐一さんの著書で『スキマの植物図鑑』というものである。
 アスフアルトの割れ目、電柱の根元といった狭い場所に生えた草や花を、写真と平易な文章で紹介している。わたしは秋田市の丘陵地帯の標高120メートルの手形山を切り崩して造成した手形山団地に住んでいるので、いろいろな所で「スキマの植物」に出会うことが多い。
 10数年前、歌集『山野行』を出版したが、そのなかに偶然にも「スキマの植物」を詠んだ歌があった。下手な歌ではあるが、その偶然性を喜んで一首を紹介したい。

  側溝の隙(ひま)より伸びて枝ひろげ紫式部の実がかがやきぬ

という歌であるが、わたしは、塚谷祐一さんの著書を読んでますます「スキマの植物」に関心が深くなり団地をめぐり歌作りを楽しんでいる。



NHK学園「短歌講座」から

 NHK学園「短歌講座」の作品集『彩歌』夏号へのリポート提出も終わり、ほっと一息というところである。このリポートは、短歌作品五首の投稿が主体であるが、ほかに前号の作品集から、「私の好きな一首」を選び、感想を記入する欄があり、結構勉強になり楽しいコーナーがある。
 今回は、『彩歌』春号の作品集から、「私の好きな一首」を選ぶことになるが、12名の選者の作品集から一首を選ぶのは大変であるが、まず、じぶんの好きなところに重点をおいて、作品集をめくって「選者のことば」を読みすすめているうちに、これだ、と思う何首かに出会う。そして、何回か詠み選ぶことになる。今回は、岡井隆選の巻頭作品の次の一首を選んだ。

  今はもう朽ちかけていた木の橋に年寄ったよと思いを寄せた

 作者は青森の滝野沢弘さんであった。
 だいぶ年数がたって古くなった木の橋に、年老いてくる自分の思いをよせた一首で、口語調も活き活きしていて感動的な一首であった。

ビルマの竪琴

 12月2日、わたしは「朝日新聞」の15面を開いて目を瞠った。小さい記事ではあったが、「遺骨調査、年度内にも」であった。
 「太平洋戦争で多くの日本兵が犠牲になったミヤンマーで、日本政府が年度内にも30年ぶりに広範囲の遺骨を調査する見通しになった」とのニュースである。民主化が進み、「外国人の立ち入りが緩和され、遺骨の情報が寄せられたのがきっかけになった」という。
 「1944年にあったインパール作戦でインドに進軍した10万人の旧日本軍が英軍に敗退」、3万人が命を落とし、「この作戦を含めた同国内の遺骨は9万1千人分が収容されたが、82年以来、大規模な調査はされておらず、4万6千人分の遺骨が収容されていない」という。
 これからの調査は「厚生労働省がミヤンマー政府と協議して取りかかる方針」だという。「調査を進めるのは、遺骨の情報が寄せられた北部のザガイン管区、西部のチン州、東部のカヤー州の3カ所」で、「見つかった遺骨は身元が分かれば、ふるさとに帰ることになる」と報道されていた。
 12月1日、妻の買い物の付き添いを終えて家に帰り、居間のテレビのスイッチを入れた。画面はなにやら映画のようであった。よく見ているとだんだんと若いころに見た記憶が蘇ってきた。『ビルマの竪琴』の画面であった。
 ビルマの山野に眠っている日本兵の遺骨をこのままにして日本へは帰れないと決心した水島上等兵は僧侶となり祖国に帰る戦友に別れを告げるラストシーンは涙を堪えることが出来なかった。竪琴で「埴生の宿」を弾き終えて、真っ直ぐに引き返す僧侶水島上等兵の後ろ姿が忘れられない。
 ミヤンマーのチン州で遺骨の先行調査をしている「ミヤンマー/ビルマご遺骨帰国運動」という民間団体の井本勝幸さん(49)は「『一人でも多くのご遺骨が見つかればうれしい』と話している」と、新聞は報じているが、いまだに4万6千人分の遺骨が収容されていないという事実に暗澹とした思いである。『ビルマの竪琴』はまだまだ終わらないのである。


菅江真澄、旅のまなざし

 10月4日から一ケ月間、秋田県全域を会場として、「地域文化の再発見と継承、地域活性化」を目的とした「第29回 国民文化祭・あきた2014」が開催されている。イベントの多さに目を瞠るが、わたしは予定通り10月11日、この国文祭を記念して開催された、県立博物館と菅江真澄研究会共催の講演会に参加した。

 講演会の演題は「真澄のまなざしを考える〜あきた遺産の再評価〜」である。講師は東京学芸大学教授の石井正己先生。ここではとりあえず、講演の内容項目のみを紹介する。


 1 ナマハギと南の文化

 2 氷下漁業と北の文化

 3 臼と言葉と人間

 4 景観とジオパーク


以上の項目について、一時間三十分にわたって解説された。

 県立博物館では、今回の国文祭の記念事業として、「菅江真澄、旅のまなざし」の特別展を開催し、併せて関連の図録を編纂発行している。この図録には講演会の講師をつとめられた石井正己教授の論考も掲載されている。菅江真澄の生涯の著作を通じ「あきた遺産の再評価」として、県民広く手に取って読んでほしいと思った。



 

 


倉敷大原美術館展と県南探訪

 羽後交通観光(株)のバスツアー企画のうち、美術館展と増田まんが美術館、内蔵巡りのコースに妻と参加した。<  9月7日、秋田駅東口を8時40分に出発した。今回は参加者が多く、40名、過去4回のツアーで一番多いということであった。気候もよくなってきたのが共通の要因となったと思われた。  秋田南インターから高速秋田道に入り、横手市の「秋田ふるさと村」着が9時40分。入館してからは、それぞれ自由行動で、近代美術館の大原美術館展や、ふるさと村の工房をめぐり、見学した。昼食はおすすめの「よこて焼きそば」、評判どおり大変うまかった。  13時30分、「秋田ふるさと村」出発。14時、増田町到着。ここでバスを降りて内蔵めぐり、まんが美術館見学の自由行動となった。乗務員から地図とパンフを貰い各自自由に歩き出した。  増田町の公開されている歴史的建造物は、14家屋で、そこで生活されている方たちがおられるので、通常一日の公開は、4家屋程度で交代して行っているとのことであった。  それにしても、この増田の内蔵の素晴らしさをいままで伝承し続けてきた増田商人の強さを改めて感じた。江戸時代より藩公認の市として始めたという朝市も、現在まで連綿と続いていて、地図に朝市通りが明示されている。
 江戸時代から明治に入り、増田の商人たちは、この朝市を商業基盤として活動の活性化に取り組んだという。増田銀行(現在の北都銀行の前身)を創設させ、さらに増田水力電気会社(発電)や、増田製陶会(陶器)、長坂商店(味噌醤油)などの会社も設立され、この傾向は大正時代になっても続き、吉乃鉱山(明治37年操業)の採掘量の増加などもあり、商業活動は加速的に活発化したという。  こうした増田商人たちの息吹と成功の証を今に伝えるのがこの「増田の内蔵」ではないだろうか。  いずれにしても非常に感動的な町並みであった。萬福寺前を通り、まんが美術館まで歩いて15分、まんが美術館を見学してバスに乗車、国道に出て十文字の道の駅で買い物、16時10分出発、横手から高速秋田道に入り、秋田駅東口着17時20分、ツアーは無事終了した。

美感遊創

 サントリーのサプリメント「セサミン」を定期購入して飲んでいる。そのとき一緒に送られてくるのが小冊子『美感遊創』である。これがなかなかの内容で面白い。今回は、「水辺の浪漫 日本橋めぐり」が特集されていた。普段見ることの出来ない部分の写真が掲載されていて興味深く拝見した。
 また、この小冊子のもう一つ楽しい記事が裏表紙の「今月のことば」である。今月は、

  どの路でも
  足の向く方へゆけば
  必ず其処(そこ)に
  見るべく
  聞くべく
  感ずべき獲物(えもの)がある

                 国木田独歩

が、紹介されていた。この言葉は独歩の随筆『武蔵野』の一節からの引用であった。その一節は、次の部分である。

 「武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向くほうへゆけばかならずそこに見るべく聞くべく、感ずべき獲物がある。」

 わたしはこの文章をよんで歌人の今は亡き上田三四二の『朝日新聞』(2011年1月23日号)の「天声人語」で引用されていた一説を思い出した。三四二が散策時に作歌したと言う「歌をつくろうとは思わない。歩くだけでいい、だがそういう道の上で、ふと、歌が落ちてくる……その言葉を唇(くち)にのぼらせ、吟味し、よさそうだと胸にしまい込む」と、随筆に記しているという。

 わたしは二人の文章を読んで、そこに共通している想いを、今、あらためて感じた。サントリーの小冊子もなかなか、いいことを載せてくれる。これも、「セサミン」を愛飲している効用であろうか。

歌人小高賢さんを偲ぶ

 角川の「短歌」7月号で2月に急逝した歌人小高賢さんの追悼記事が掲載されている。岡井隆さんの「小高賢さんの霊に」の一文には感動した。また、写真なども懐かしく拝見した。わたしは、小高さんとは面識はないが忘れることの出来ない思い出がある。
 小高さんが読売新聞の秋田版文芸欄「よみうり文芸」の短歌の選者を2010年1月ら一年間担当された時期、わたしは下手な短歌を投稿して小高さんの選を受けた。一年間投稿して佳作に二首、入選が七首という成績であった。
 佳作二首のうち、次の一首は、小高さんの選評によって私の作歌に大きな指標を与えてくれたものとして大切にしているものである。わたしは、歌ができないときなどこの小高さんの選評を読んで支えられている。
 それは、2010年11月4日の新聞に掲載された。

 夕光の空にかがやく熟れ柿を仰ぎて遊佐の里の道ゆく

 (評) 真赤に実った柿。「遊佐」という地名が効果的な自然詠。おそらく柿の向こうには、雪を被っている鳥海山が想像できる。堂々とした自然詠。

 小高さん、選評ありがとうございました。これからもこの言葉を大切にして歌に励んでゆきます。
 ご冥福をお祈りいたします。

桜桃忌

 「秋田魁新報」の週刊連載エッセイ「季の観覧車」(栗木京子)も、半年を過ぎようとしている。早いものである。
 6月15日から6月21日までのエッセイのタイトルは「桜桃忌に寄せて」。そういえば6月19日は小説家太宰治の忌日であった。昭和23年6月13日、玉川上水で入水自殺、19日遺体が発見された。太宰に「桜桃」という小説があることから6月19日の忌日を「桜桃忌」と呼び、俳句歳時記の夏の季語として多くの文人に愛され親しまれてきた。
 わたしが始めて太宰治全集の第一巻『晩年』を手にしたのは昭和23年9月1日八雲書店発行のもので、自殺から数か月しか経過していなかった。定価320円であった。同年の9月30日には、第4巻『おしゃれ童子』が定価300円で発行された。いまから65年前のことであるが、わたしには忘れることの出来ない、事件であった。
 ウオーキングをやりだして東京の大会にも参加するようになり、玉川上水の遊歩道を歩く機会も増えて、太宰治の入水場所も何回か目にした。そんなときに次の歌が生まれた。

    太宰治の入水場所のしるべとて金木町産の黒き石立つ

 三鷹駅周辺の路地には太宰治のウオークのコースなども紹介され、訪れるウオーカーも増えだしてきていたその頃の歌も紹介したい。

    跨線橋にたたずみ津軽を偲びたる太宰治ををりをり想う
    三鷹駅南口からぶらぶらとインバネス着て太宰の行きし
    足しげく太宰が通いし酒店あと文学サロンとなりて華やぐ

                                       

梅が咲いた

 まだ風は冷たいのに日差しは、だんだん春めいてきて庭の水仙が咲き始め、カタクリの小さい芽が顔をだした。そして、梅の木の花が咲き、白モクレンの花芽がいっせいにふくらみ始めた。我が家の庭にもやっと本格的に春がやってきた。
 わが家の庭に春一番を告げてくれるのは、なんといっても三椏の木である。もう今は満開に近いが、小さな花芽がまだ膨らんでいるものもある。歌人の成瀬有(故人)の三椏の歌が浮かんでくる。

  夕の陽にみつまたの花咲きけぶる甦りくるいのちの明かり
                            成瀬有『流離伝』

 一冬を縁側に並べて置いた君子蘭の四つの鉢もそれぞれ咲き始めた。すごい力でである。はやく外に出たいようという感じであるが、外はまだ寒いよ、と言い聞かせている。

 昨日は好天にめぐまれ、郊外を歩いた。太平山の山並みは、まだ雪におおわれているが、広がる田んぼには耕耘機の音がひびき、農作業も始まったようである。

 終わりに妻の短歌を紹介して、この文章を閉じる。

  あたたかき風春をのせ三椏の枝ゆらしつつ庭通りすぐ
                            ナオ子

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