花に酔い

 秋田市の千秋公園の花見も、ようやく19日から始まり、週末、大勢の人がさくら祭りを楽しんだと報道された。
 我が家の庭も、梅や椿が満開、白木蓮も大きな花芽が膨らんで開花寸前、庭のあちこちに水仙が咲きだして、まさに「春が来た」の感じで、ある詩が思い出されてくる。その詩は、書家で詩人の榊莫山の詩である。莫山とわたしは大正15年生まれの同年ということもあり親しみをもって愛唱していた。
 
  花あるときは
  
  造化の神の傑作は
  どう考えても花である
  春夏秋冬野や山に
  よくもまあと嘆息してしまう
  だから
  「花アルトキハ花ニ酔ヒ
   風アルトキハ風ニ酔フ」
  てしまうんだ

というような詩である。
 莫山は、自由な書風と飾らない人柄で、莫山先生の愛称でよく知られていた。昭和33年、書壇を退いて野に下り、三重県の伊賀の里に、江戸時代から代々受け継がれてきた三千坪といわれる山々にかこまれて悠々自適の日々を送っておられた。家族には普段から90歳までや、と言っておられたが平成23年に84歳で他界された。
 私はこの季節なるとこの詩を思い浮かべ詩集を開いて莫山先生を偲んでいる。

『俳句の海に潜る』を読む

 正月明けから思想家で人類学者の中沢新一さんと俳人の小澤實さんの対談集『俳句の海に潜る』をなんとか読み終えた。以前、2008年3月頃、中沢さんの著書『アースダイバー』を読んでいたので、今回も親しんで読みすすめることができた。今回とくに興味を感じたのは、「俳句のアニミズム」という点であった。このことについて少し感想を書いてみたい。次の句はよく知られている芭蕉の「おくのほそ道」の立石寺での句である。
 
  閑(しづか)さや岩にしみ入る蟬の声    松尾芭蕉

 中沢さんは、次のように解説されている。
 「この句はまさにアニミズムの極致でしょう。<岩にしみいる蟬の声>と言うとき、蟬を流れるスピリットと、岩を流れるスピリットが、相互貫入を起こして染み込み合っています。それが<閑さや>というわけです。(中略)人間の体という容器から外に出てきたばかりの霊たちが、いっぱい群れ集まっている。そういうところに、土中から出てきたばかりの蟬が鳴くのです。そこには土中から立ち上がってきた岩もある。大地、岩、蟬、死者霊、それらすべてが相互貫入しあう世界。芭蕉は全感覚を開いてその全体運動を感知しています。そして、この俳句が生まれた。これはとても凄まじいアニミズム俳句です。」
 わたしはここまで読んで、短歌の分野ではアニミズムはどんな捉え方がされているのかを考えてみた。わたしがアニミズムに興味を持ち始めたのは、1999年(平成11)1月1日の「秋田魁新報」の「世紀を詠む」欄の、筆者、歌人の佐佐木幸綱さんの文章を読んだ頃のように思える。ここに、その文章の一部を紹介する。

 「 春の魚うっとり抱かれ朝靄に川のアニマの歌声ひびく  佐佐木幸綱

 私たちの内部には、古代以来のアニミズムの感覚が、かすかながら残っているのだろう。アニミズムとは、、太陽や、山や川、樹木等自然界のあらゆる事物は、固有の性霊(アニマ)をもつ霊的存在とみる見方である。
 日の出には太陽にあいさつする。山や川とともにうたい、樹木と友達になる。そういう自然とのつきあい方がアニミズムである。」

 今回この一冊を読み終えて、あらためて芭蕉の「おくのほそ道」の偉大さを強く感じた。再読再読、「おくのほそ道」を歩きたい。


百歳の歌人

 19日の金曜日は暦どおり朝から雨降り、それが土曜日まで降り続き道路の雪もほとんど消えて春らしくなったけれど、また明日の月曜日から雪に変わる予報がでている。この時期の天候は変りやすい。
 前回、80歳、90歳代の歌人のことにふれたが、灯台もと暗し、私の所属している「運河の会」には、104歳になられた方が在籍されている。現在も「運河の会」顧問をされている梶井重雄先生(万葉学者でもあるので、先生と呼ばせていただく)で、毎月元気溌剌の歌を投稿されている。
 今年の「運河」一月号にも六首発表されている。そのうち二首を紹介する

  百三歳を越えし齢のわが心煩悩なくして若返るかな

  足腰をきたへんとして散歩する仰げば秋雲吹き降ろす風

 二首ともに百歳を越えた方の歌とは思えない、溌剌とした気持ちの感じられる歌である。
 先生は、明治四十五年(1912)六月生。昭和十二年(1937)東北帝国大学法文学部国文科卒業。在学中から仙台アララギ会に入会。斉藤茂吉の選を受けた。昭和五十八年五月、歌誌『運河』創刊に参加し、同人となられた。
 わたしが初めて先生にお会いしたのが、二十数年前、田沢湖町で開催された「運河の会」の全国大会であった。その際、随筆集『金蘭の花』を頂戴した。その本に次の歌が書き添えてあった。

  金蘭のはなの黄金はにほへども速やかにして時光とどまらず      

 その後平成十八年九月には、先生が満九十四歳でまとめられた歌集『天耳(てんに)』を頂戴した。

 わたしはこの歌集の出版記念に色紙を頂戴しているのでここに紹介したい。
 この歌は歌集の最後の小見出し「日月燈明」の最初の歌で、

  天地に我一人立つ命見え日月燈明の声がきこゆる  

である。小見出し「日月燈明」の裏面にこの歌の解説がある。
 
  日月燈明佛
  此佛の光明、天に在ては日月の如く、地に在ては燈の如し、依て名く。 (『法華経序品』)

 わたしは今この歌集を再読し、頂戴した色紙の歌をかみしめている。

冬鴎

 節分の豆撒きも終わり、ほっと一息。今日は立春、外の雪もしっとりとした感じである。夕べはテレビで吉田類さんの「酒場放浪記」を見る。
 わたしのこの番組の見どころは、類さんが飲み終わって街にでてほろ酔いで気分で歩いて行くシーンである。そして字幕に類さんの俳句がでる。この俳句を読むのが楽しいのである。三日の夜に詠んだ句が、また、よかった。

  さまようて硝子の街の冬鴎         吉田 類

 わたしはこの句で、「冬鴎」という季語をはじめて知った。晩酌も進み盛り上がったころ、妻から突然「一首できた」、との発言があった。

  見上げれば冬空高く飛ぶ鴎粉雪のなかいづこへ行くや

 なんと素晴らしい一首であった。まさに、「冬鴎」である。私と娘はしばし感嘆した。いい歌だと思った。
 節分の夜は、はずんだまなこで眠りについた。

新しき年を迎えて

 新しき年を迎えて80歳代も終わり、いよいよ5月の誕生日には満90歳となり階段をひとつ上がるような気持ちになる。歌人の土屋文明に次のような歌があり折々愛唱してきた。

  十といふところに段のある如き錯覚持ちて九十一となる
                            (『青南後集』)

 わたしが学んでいるNHKの短歌講座で、昨年の秋に「家族の歌」の募集があり、340首を超える応募があったと紹介されていた。年齢別にみてみると90歳を超えた人の応募が16首であった。会員に高齢の人が多いのが素晴らしいことだと改めて感じた。
 購読している月刊の『現代短歌』二月号の特集記事が「八十歳の歌人」で、昭和十年生まれの歌人、37名の新作七首が紹介されていた。数年前には「七十歳の歌人」の特集もあったことを思い出した。そして、「九十歳の歌人」の特集が組まれることもそんなに遠い日ではないことをあらためて感じた。 
 新しい年を迎えさらに歌の広がりと深さをもとめて精進してゆきたい。

シルバーウイークの旅

 今回の旅は、20日から22日まで山形県米沢市から南陽市赤湯温泉までのゆったりした旅程であった。20日秋田発9:12、仙台、福島で乗り換え山形新幹線で米沢へ、12:54の到着であった。道ずれは、秋田から私たち夫婦と末娘、福島で合流した東京の長女夫婦の5人である。
 早速、駅前の「米沢牛」の食堂をおとずれたが何処も長い列、あきらめてホテルを目指す。荷物を置いて近くの食堂「花膳」でおそい昼食。ホテルで休憩したあと米沢城跡周辺を訪れることにした。ホテルのすぐ近くに狭い道があり、案内板に「武者道」(むしゃみち)とあった。この道は下級武士たちが帯刀せず、忍んで買い物をする際に使用したという幅の狭い道で、今歩いても当時が偲ばれる。
 夕刻ホテルを出て「武者道」を通り抜け大通りへ。県社通りの九里学園高校前を通り米沢城の本丸へ向かう。信号を渡りいよいよ参道に入る。上杉神社のお濠に架かる「舞鶴橋」を渡り上杉神社の正面へ。この橋は石造りのアーチ橋で、長さ5メートル、幅7メートルで、地元高畠産の凝灰岩で作られ、完成が1882(明治15)年、となっている。史料がなく石工の名前などはわからないが、置賜地域には米沢市や南陽市高畠など身近な場所に石切り場があり、多くの石造アーチ橋がつくられていて、南陽市宮内地区の石工吉田善之助の名前がよく知られているので「舞鶴橋」も吉田さんか、その門弟によるものではないかと推察される。この橋で特に気になったのが親柱、アーチ橋本体と関わりのない考証で作製され、形は溶岩塔のように思われた。米沢観光ガイドブック「よねざわ」の10ページに全景写真が載っている。この橋は国登録有形文化財になっている。
時間が遅く境内に入れず拝礼して引き返し物産館でお土産品などを見る。再び参道へ出て、門東町通りの信号を渡り右折して夕食の場所「吉亭」へと向かう。夕空に遠く遙かに「兜山」を展望できた。
 夕食の場所「吉亭」は通りに面した古い庭園のある料亭であった。案内には、「江戸末期より近年まで<津の国屋吉貞>の屋号で絹織物織元を営んでいた。大正年間に建てられた館と、江戸後期からの庭園、栗の老木など、当亭の自慢の米沢牛・山懐料理とあわせ、ごゆるりとお楽しみ下さい」とあった。米沢牛のすき焼きと日本酒で、米沢の夜を堪能した。
 21日、9時半ころホテルを出発。今日は、米沢城跡の一角に建っている上杉博物館で、「米沢藩医家の系譜」の特別展を見る。米沢藩にこのような医家の振興に尽くしていたことを初めて知った。一冊の分厚い図録を手にして米沢藩の医学の歴史に思いを馳せる。上杉鷹山の顔写真は忘れられない。
 14時38分、米沢をあとにし、今日の宿泊地、赤湯温泉に向かった。赤湯着14時53分。駅には迎えの車が来てくれていた。赤湯温泉大通りを1・7キロほどで旅館へ到着。大通りに面した桜湯山茱萸である。江戸後期開業の古い温泉であった。木造つくりの部屋は落ち着きがありゆっくりした雰囲気であった。大浴場もよかったが、各部屋にある露天風呂も最高であった。夕食は、蔵王牛の炭火焼に舌鼓を打ち、山形の日本酒で歓談した。
 翌朝は、朝食後、桜で有名な烏帽子山公園の周辺を散歩した。御神坂口の階段の上の方に階段を立体交差する石造りのアーチ橋が見える。この橋は南陽市宮内の石工吉田善之助さんの弟子である川合兄弟 の作と言われている。
寺沢口から路地に入り温泉大通りに出て旅館へ戻る。準備を整えていよいよ出発。旅館から思いかけず車中で食べるおにぎりの差し入れがあった。車で赤湯駅へ。
 22日赤湯発13時10分の「つばさ84号」に乗車、福島で下車し、東京行きを見送ってから、「やまびこ51号」で仙台へ、さらに「こまち21号」に乗り換えて秋田へ、17時13分無事到着した。
 お天気にめぐまれ、楽しい思い出いっぱいの旅であった。万々のシルバーウイークの旅であった。


スキマの植物

 5月4日発売の「読売新聞」の記事、「編集手帳」をなにげなく読んで大いに感激した。それは、それは、思いがけない一冊の本の紹介からはじまっていたからだ。その本は、塚谷祐一さんの著書で『スキマの植物図鑑』というものである。
 アスフアルトの割れ目、電柱の根元といった狭い場所に生えた草や花を、写真と平易な文章で紹介している。わたしは秋田市の丘陵地帯の標高120メートルの手形山を切り崩して造成した手形山団地に住んでいるので、いろいろな所で「スキマの植物」に出会うことが多い。
 10数年前、歌集『山野行』を出版したが、そのなかに偶然にも「スキマの植物」を詠んだ歌があった。下手な歌ではあるが、その偶然性を喜んで一首を紹介したい。

  側溝の隙(ひま)より伸びて枝ひろげ紫式部の実がかがやきぬ

という歌であるが、わたしは、塚谷祐一さんの著書を読んでますます「スキマの植物」に関心が深くなり団地をめぐり歌作りを楽しんでいる。



NHK学園「短歌講座」から

 NHK学園「短歌講座」の作品集『彩歌』夏号へのリポート提出も終わり、ほっと一息というところである。このリポートは、短歌作品五首の投稿が主体であるが、ほかに前号の作品集から、「私の好きな一首」を選び、感想を記入する欄があり、結構勉強になり楽しいコーナーがある。
 今回は、『彩歌』春号の作品集から、「私の好きな一首」を選ぶことになるが、12名の選者の作品集から一首を選ぶのは大変であるが、まず、じぶんの好きなところに重点をおいて、作品集をめくって「選者のことば」を読みすすめているうちに、これだ、と思う何首かに出会う。そして、何回か詠み選ぶことになる。今回は、岡井隆選の巻頭作品の次の一首を選んだ。

  今はもう朽ちかけていた木の橋に年寄ったよと思いを寄せた

 作者は青森の滝野沢弘さんであった。
 だいぶ年数がたって古くなった木の橋に、年老いてくる自分の思いをよせた一首で、口語調も活き活きしていて感動的な一首であった。

ビルマの竪琴

 12月2日、わたしは「朝日新聞」の15面を開いて目を瞠った。小さい記事ではあったが、「遺骨調査、年度内にも」であった。
 「太平洋戦争で多くの日本兵が犠牲になったミヤンマーで、日本政府が年度内にも30年ぶりに広範囲の遺骨を調査する見通しになった」とのニュースである。民主化が進み、「外国人の立ち入りが緩和され、遺骨の情報が寄せられたのがきっかけになった」という。
 「1944年にあったインパール作戦でインドに進軍した10万人の旧日本軍が英軍に敗退」、3万人が命を落とし、「この作戦を含めた同国内の遺骨は9万1千人分が収容されたが、82年以来、大規模な調査はされておらず、4万6千人分の遺骨が収容されていない」という。
 これからの調査は「厚生労働省がミヤンマー政府と協議して取りかかる方針」だという。「調査を進めるのは、遺骨の情報が寄せられた北部のザガイン管区、西部のチン州、東部のカヤー州の3カ所」で、「見つかった遺骨は身元が分かれば、ふるさとに帰ることになる」と報道されていた。
 12月1日、妻の買い物の付き添いを終えて家に帰り、居間のテレビのスイッチを入れた。画面はなにやら映画のようであった。よく見ているとだんだんと若いころに見た記憶が蘇ってきた。『ビルマの竪琴』の画面であった。
 ビルマの山野に眠っている日本兵の遺骨をこのままにして日本へは帰れないと決心した水島上等兵は僧侶となり祖国に帰る戦友に別れを告げるラストシーンは涙を堪えることが出来なかった。竪琴で「埴生の宿」を弾き終えて、真っ直ぐに引き返す僧侶水島上等兵の後ろ姿が忘れられない。
 ミヤンマーのチン州で遺骨の先行調査をしている「ミヤンマー/ビルマご遺骨帰国運動」という民間団体の井本勝幸さん(49)は「『一人でも多くのご遺骨が見つかればうれしい』と話している」と、新聞は報じているが、いまだに4万6千人分の遺骨が収容されていないという事実に暗澹とした思いである。『ビルマの竪琴』はまだまだ終わらないのである。


菅江真澄、旅のまなざし

 10月4日から一ケ月間、秋田県全域を会場として、「地域文化の再発見と継承、地域活性化」を目的とした「第29回 国民文化祭・あきた2014」が開催されている。イベントの多さに目を瞠るが、わたしは予定通り10月11日、この国文祭を記念して開催された、県立博物館と菅江真澄研究会共催の講演会に参加した。

 講演会の演題は「真澄のまなざしを考える〜あきた遺産の再評価〜」である。講師は東京学芸大学教授の石井正己先生。ここではとりあえず、講演の内容項目のみを紹介する。


 1 ナマハギと南の文化

 2 氷下漁業と北の文化

 3 臼と言葉と人間

 4 景観とジオパーク


以上の項目について、一時間三十分にわたって解説された。

 県立博物館では、今回の国文祭の記念事業として、「菅江真澄、旅のまなざし」の特別展を開催し、併せて関連の図録を編纂発行している。この図録には講演会の講師をつとめられた石井正己教授の論考も掲載されている。菅江真澄の生涯の著作を通じ「あきた遺産の再評価」として、県民広く手に取って読んでほしいと思った。



 

 


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