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  • 2018.08.19 Sunday
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賀祥山 禅林寺を訪ねて

 今年のお盆は、本荘市の泉流寺のお墓参りを終えた後、午後は、にかほ市の禅林寺を訪ねた。 
 禅林寺の住職、山中律雄さんはわたしが所属している短歌結社「運河の会」の副会長をされている。山中さんの短歌の師匠は、「運河の会」同人の故・川島喜代詩さんで、仁賀保で短歌の会があるときは選者として川島先生が東京から出席され、指導されていた。そのようなことから、山中さんは禅林寺境内に川島先生の歌碑を建てられた。
 その川島先生と長きにわたり友人であった詩人の暮尾淳さんと、東京にいる娘の連れ合いが親しくお付き合いしていることを知ったときはわたしも驚いた。娘が一度は禅林寺をお訪ねしてみたいとかねて希望していたので、今回、秋田に住む末娘の運転で、私の家内も入れて四人で思い切って足をのばしたのであった。
 
 本荘市から車で約30分、右に日本海、正面に鳥海山を見ながら国道をすすみ、左に折れて坂道をのぼると、うっそうとした木立の中に禅林寺がある。山門を入ってすぐ左に川島喜代詩さんの歌碑があり、次の短歌が刻まれている。

     大寺は山を負へれば朝闌けて
        わが身あづけんしづけさにあり   川島喜代詩

 お盆中のことでもあり、山中さんとの面会は無理だと思いつつも玄関で呼び鈴を押すと、山中さんはやはりお出かけであったが、奥様が出迎えてくださった。 
 ご挨拶のあと奥様のご案内で川島先生が自ら揮毫された短歌の掛け軸や、由利本荘市の水墨画家、打矢悳氏の襖絵などを拝見させていただいた。久方ぶりに川島先生の短歌に接し感慨無量であった。
 奥様に御礼を申し上げ、川島先生の歌碑の前で写真を撮り、禅林寺をあとにした。
 非常に有意義な一日であったし、なによりも、同行の家族の感動が伝わってきて、私にとって大きな喜びであった。



わが遊行期

 角川の『短歌』を購読して久しいが、特集記事に関心のあった号は大方、保存している。時折開いては特集記事を読んでいる。
 先日たまたま手にした平成二十年十月号の特集記事「60代から楽しむ短歌」が目に入った。わたしはもう九十代であるが、早速頁を開いた。「短歌のある人生の素晴らしさ」には田島邦彦、沖ななも、前川佐重郎の各氏の文章が掲載されていて、久々に楽しく読み進めた。さらに十人の歌人による「題詠60歳」が紹介されていた。
 わたしは丹波真人氏の10首詠を読んで次の歌に強くひかれた。

   学ぶとき働くとき過ぎ<林住期>古賢のやうに野山に入らむ
                                 丹波真人

 ウェブサイト「ゆうゆう人生応援団」によると、古代インドにおいては理想的な人生観として四住期(マヌ典)という考え方があって、人生の段階が四つに区分されているそうだ。

  学生期
  家住期
  林住期
  遊行期

 個々の区分の説明は省略するが、この歌に詠まれている<林住期>は、「その勤めも果たし、自然に向き直って自分自身の人生を静かに見つめる時期」と解説されている。下句はこの解説を越えて作者の思いが広く深く歌われている。
 わたしは九十二歳、<遊行期>を楽しんで日々をすごしている。ということで、一首を紹介して終わり。

   さはやかに遊行期なるをすごすべし日々の作歌を喜びとして
                                    冨樫 亨

友を偲ぶ

 団地に移りすんで四十数年の付き合いだった友人が亡くなった。彼はわたしと同じ年の九十二歳だった。
 昨年もゴルフを楽しんだので今年もやろうと、5月のコンペに友人を誘ったが少し体調が悪いので今年は休むということだった。5月のコンペは妻ともう一人の友人と三人で楽しんだ。そして5月も終わり6月27日の新聞の死亡欄で友人の死亡を知った。
 友人の奥さんも息子さんに引き取られ家は空き家になっているが、庭でパターの練習をやっている友人が偲ばれるこのごろである。 

詩人からの手紙

 この七月に歌集『冬の虹』を出版したので、詩人の井川博年さんにお贈りしたところ、早速、感想の文章を寄せていただきました。
 わたしは井川さんの文章を読み進むにつれブログに保存したい思いが強くなり、「詩人からの手紙」というタイトルを付して記しました。

―――――――――――――――――――――――――――――

              詩人からの手紙

 いただいてすぐ拝読しました。明るくてとてもいい歌集ですね。読むとすぐに、

      ・妻の膝に効き目あること確かめて鮫の軟骨われも飲みをり

が、眼に入り、ちょうど今、私も膝を痛めていて、サメの軟骨の錠剤・グルコサミンを飲んでいるものですから、「やっぱり効くんですか」と、うれしくなりました。また、次の歌の、

      ・誕生日祝いて届く「三千盛」立原正秋好みしとあり

「三千盛」は日本一の辛口の多治見の銘酒です。私は仕事先の知人の紹介で味を覚えました。それ以外にも私の好きな詩人・歌人を詠ったものを探すといっぱいありますね。

      ・跨線橋にたたずみ津軽を偲びたる太宰治ををりをり想ふ
      ・若き日に吉本隆明学びたりし校舎を思ふ米沢の駅

そして「晩年」と題する冒頭の歌に、「啄木命」の私は感動します。今の私もそうだから

      ・若き日は宮澤賢治の詩を好み老いたる今は啄木を読む

もちろん、わが友清水昶を偲んだ歌も、もはや忘れがたい歌となりました。

      ・吉祥寺のそば屋で清水昶氏とわが歌集手に飲みし晩秋

私がこれらの歌に拘るのは、読書体験こそが文学活動の根幹だからと信じるからです。
 冨樫さんは、人生の達人です。九十一歳で第三歌集でしょう。しかもこの七年間、歌がまったく変わっていない。変わらぬスタンスで淡々と老いの日乗が詠われている。
 普通は老いるに従って生のエネルギーが減ってきて、歌もまた衰弱してしまうものです。冨樫さんはそこのところを、実に上手く調節して生きておられる。人が100パーセントでフゥフゥ言って生きるところを、70%くらいで余力を残しながら悠々と生きておられる。しかも過去を振り返らない。いつも前をみている。これが長生きの秘訣でしょうし、老いに入って歌を詠み続けるコツもそこにありそうです。でもこういう生活ができるのもすべて奥様あってこそ。
    
      ・ゆきずりに出逢ふ桜で充分と花見嫌いの妻はつぶやく
      ・峡深く山の出湯を尋ねきて「いいところね」と妻はうなずく
      ・喪服着る背のファスナーに手を貸して妻の姿勢を少し正しぬ
      ・どんど焼き終えて馴染みのすし店に妻と語りて昼の酒汲む

 『冬の虹』は冨樫さんが作者というよりも老夫婦合作の歌集といってもいいでしょう。そればかりではない。
本作りには娘さんご夫婦の力添えがあったということのようですから、これはもう一家総出の仕事というしかない。
老境の私はそのことに感動を覚えました。

――――――――――――――――――――――――――――――

 井川博年さん、暖かいお言葉ありがとう御座いました。



花に酔い

 秋田市の千秋公園の花見も、ようやく19日から始まり、週末、大勢の人がさくら祭りを楽しんだと報道された。
 我が家の庭も、梅や椿が満開、白木蓮も大きな花芽が膨らんで開花寸前、庭のあちこちに水仙が咲きだして、まさに「春が来た」の感じで、ある詩が思い出されてくる。その詩は、書家で詩人の榊莫山の詩である。莫山とわたしは大正15年生まれの同年ということもあり親しみをもって愛唱していた。
 
  花あるときは
  
  造化の神の傑作は
  どう考えても花である
  春夏秋冬野や山に
  よくもまあと嘆息してしまう
  だから
  「花アルトキハ花ニ酔ヒ
   風アルトキハ風ニ酔フ」
  てしまうんだ

というような詩である。
 莫山は、自由な書風と飾らない人柄で、莫山先生の愛称でよく知られていた。昭和33年、書壇を退いて野に下り、三重県の伊賀の里に、江戸時代から代々受け継がれてきた三千坪といわれる山々にかこまれて悠々自適の日々を送っておられた。家族には普段から90歳までや、と言っておられたが平成23年に84歳で他界された。
 私はこの季節なるとこの詩を思い浮かべ詩集を開いて莫山先生を偲んでいる。

『俳句の海に潜る』を読む

 正月明けから思想家で人類学者の中沢新一さんと俳人の小澤實さんの対談集『俳句の海に潜る』をなんとか読み終えた。以前、2008年3月頃、中沢さんの著書『アースダイバー』を読んでいたので、今回も親しんで読みすすめることができた。今回とくに興味を感じたのは、「俳句のアニミズム」という点であった。このことについて少し感想を書いてみたい。次の句はよく知られている芭蕉の「おくのほそ道」の立石寺での句である。
 
  閑(しづか)さや岩にしみ入る蟬の声    松尾芭蕉

 中沢さんは、次のように解説されている。
 「この句はまさにアニミズムの極致でしょう。<岩にしみいる蟬の声>と言うとき、蟬を流れるスピリットと、岩を流れるスピリットが、相互貫入を起こして染み込み合っています。それが<閑さや>というわけです。(中略)人間の体という容器から外に出てきたばかりの霊たちが、いっぱい群れ集まっている。そういうところに、土中から出てきたばかりの蟬が鳴くのです。そこには土中から立ち上がってきた岩もある。大地、岩、蟬、死者霊、それらすべてが相互貫入しあう世界。芭蕉は全感覚を開いてその全体運動を感知しています。そして、この俳句が生まれた。これはとても凄まじいアニミズム俳句です。」
 わたしはここまで読んで、短歌の分野ではアニミズムはどんな捉え方がされているのかを考えてみた。わたしがアニミズムに興味を持ち始めたのは、1999年(平成11)1月1日の「秋田魁新報」の「世紀を詠む」欄の、筆者、歌人の佐佐木幸綱さんの文章を読んだ頃のように思える。ここに、その文章の一部を紹介する。

 「 春の魚うっとり抱かれ朝靄に川のアニマの歌声ひびく  佐佐木幸綱

 私たちの内部には、古代以来のアニミズムの感覚が、かすかながら残っているのだろう。アニミズムとは、、太陽や、山や川、樹木等自然界のあらゆる事物は、固有の性霊(アニマ)をもつ霊的存在とみる見方である。
 日の出には太陽にあいさつする。山や川とともにうたい、樹木と友達になる。そういう自然とのつきあい方がアニミズムである。」

 今回この一冊を読み終えて、あらためて芭蕉の「おくのほそ道」の偉大さを強く感じた。再読再読、「おくのほそ道」を歩きたい。


百歳の歌人

 19日の金曜日は暦どおり朝から雨降り、それが土曜日まで降り続き道路の雪もほとんど消えて春らしくなったけれど、また明日の月曜日から雪に変わる予報がでている。この時期の天候は変りやすい。
 前回、80歳、90歳代の歌人のことにふれたが、灯台もと暗し、私の所属している「運河の会」には、104歳になられた方が在籍されている。現在も「運河の会」顧問をされている梶井重雄先生(万葉学者でもあるので、先生と呼ばせていただく)で、毎月元気溌剌の歌を投稿されている。
 今年の「運河」一月号にも六首発表されている。そのうち二首を紹介する

  百三歳を越えし齢のわが心煩悩なくして若返るかな

  足腰をきたへんとして散歩する仰げば秋雲吹き降ろす風

 二首ともに百歳を越えた方の歌とは思えない、溌剌とした気持ちの感じられる歌である。
 先生は、明治四十五年(1912)六月生。昭和十二年(1937)東北帝国大学法文学部国文科卒業。在学中から仙台アララギ会に入会。斉藤茂吉の選を受けた。昭和五十八年五月、歌誌『運河』創刊に参加し、同人となられた。
 わたしが初めて先生にお会いしたのが、二十数年前、田沢湖町で開催された「運河の会」の全国大会であった。その際、随筆集『金蘭の花』を頂戴した。その本に次の歌が書き添えてあった。

  金蘭のはなの黄金はにほへども速やかにして時光とどまらず      

 その後平成十八年九月には、先生が満九十四歳でまとめられた歌集『天耳(てんに)』を頂戴した。

 わたしはこの歌集の出版記念に色紙を頂戴しているのでここに紹介したい。
 この歌は歌集の最後の小見出し「日月燈明」の最初の歌で、

  天地に我一人立つ命見え日月燈明の声がきこゆる  

である。小見出し「日月燈明」の裏面にこの歌の解説がある。
 
  日月燈明佛
  此佛の光明、天に在ては日月の如く、地に在ては燈の如し、依て名く。 (『法華経序品』)

 わたしは今この歌集を再読し、頂戴した色紙の歌をかみしめている。

冬鴎

 節分の豆撒きも終わり、ほっと一息。今日は立春、外の雪もしっとりとした感じである。夕べはテレビで吉田類さんの「酒場放浪記」を見る。
 わたしのこの番組の見どころは、類さんが飲み終わって街にでてほろ酔いで気分で歩いて行くシーンである。そして字幕に類さんの俳句がでる。この俳句を読むのが楽しいのである。三日の夜に詠んだ句が、また、よかった。

  さまようて硝子の街の冬鴎         吉田 類

 わたしはこの句で、「冬鴎」という季語をはじめて知った。晩酌も進み盛り上がったころ、妻から突然「一首できた」、との発言があった。

  見上げれば冬空高く飛ぶ鴎粉雪のなかいづこへ行くや

 なんと素晴らしい一首であった。まさに、「冬鴎」である。私と娘はしばし感嘆した。いい歌だと思った。
 節分の夜は、はずんだまなこで眠りについた。

新しき年を迎えて

 新しき年を迎えて80歳代も終わり、いよいよ5月の誕生日には満90歳となり階段をひとつ上がるような気持ちになる。歌人の土屋文明に次のような歌があり折々愛唱してきた。

  十といふところに段のある如き錯覚持ちて九十一となる
                            (『青南後集』)

 わたしが学んでいるNHKの短歌講座で、昨年の秋に「家族の歌」の募集があり、340首を超える応募があったと紹介されていた。年齢別にみてみると90歳を超えた人の応募が16首であった。会員に高齢の人が多いのが素晴らしいことだと改めて感じた。
 購読している月刊の『現代短歌』二月号の特集記事が「八十歳の歌人」で、昭和十年生まれの歌人、37名の新作七首が紹介されていた。数年前には「七十歳の歌人」の特集もあったことを思い出した。そして、「九十歳の歌人」の特集が組まれることもそんなに遠い日ではないことをあらためて感じた。 
 新しい年を迎えさらに歌の広がりと深さをもとめて精進してゆきたい。

シルバーウイークの旅

 今回の旅は、20日から22日まで山形県米沢市から南陽市赤湯温泉までのゆったりした旅程であった。20日秋田発9:12、仙台、福島で乗り換え山形新幹線で米沢へ、12:54の到着であった。道ずれは、秋田から私たち夫婦と末娘、福島で合流した東京の長女夫婦の5人である。
 早速、駅前の「米沢牛」の食堂をおとずれたが何処も長い列、あきらめてホテルを目指す。荷物を置いて近くの食堂「花膳」でおそい昼食。ホテルで休憩したあと米沢城跡周辺を訪れることにした。ホテルのすぐ近くに狭い道があり、案内板に「武者道」(むしゃみち)とあった。この道は下級武士たちが帯刀せず、忍んで買い物をする際に使用したという幅の狭い道で、今歩いても当時が偲ばれる。
 夕刻ホテルを出て「武者道」を通り抜け大通りへ。県社通りの九里学園高校前を通り米沢城の本丸へ向かう。信号を渡りいよいよ参道に入る。上杉神社のお濠に架かる「舞鶴橋」を渡り上杉神社の正面へ。この橋は石造りのアーチ橋で、長さ5メートル、幅7メートルで、地元高畠産の凝灰岩で作られ、完成が1882(明治15)年、となっている。史料がなく石工の名前などはわからないが、置賜地域には米沢市や南陽市高畠など身近な場所に石切り場があり、多くの石造アーチ橋がつくられていて、南陽市宮内地区の石工吉田善之助の名前がよく知られているので「舞鶴橋」も吉田さんか、その門弟によるものではないかと推察される。この橋で特に気になったのが親柱、アーチ橋本体と関わりのない考証で作製され、形は溶岩塔のように思われた。米沢観光ガイドブック「よねざわ」の10ページに全景写真が載っている。この橋は国登録有形文化財になっている。
時間が遅く境内に入れず拝礼して引き返し物産館でお土産品などを見る。再び参道へ出て、門東町通りの信号を渡り右折して夕食の場所「吉亭」へと向かう。夕空に遠く遙かに「兜山」を展望できた。
 夕食の場所「吉亭」は通りに面した古い庭園のある料亭であった。案内には、「江戸末期より近年まで<津の国屋吉貞>の屋号で絹織物織元を営んでいた。大正年間に建てられた館と、江戸後期からの庭園、栗の老木など、当亭の自慢の米沢牛・山懐料理とあわせ、ごゆるりとお楽しみ下さい」とあった。米沢牛のすき焼きと日本酒で、米沢の夜を堪能した。
 21日、9時半ころホテルを出発。今日は、米沢城跡の一角に建っている上杉博物館で、「米沢藩医家の系譜」の特別展を見る。米沢藩にこのような医家の振興に尽くしていたことを初めて知った。一冊の分厚い図録を手にして米沢藩の医学の歴史に思いを馳せる。上杉鷹山の顔写真は忘れられない。
 14時38分、米沢をあとにし、今日の宿泊地、赤湯温泉に向かった。赤湯着14時53分。駅には迎えの車が来てくれていた。赤湯温泉大通りを1・7キロほどで旅館へ到着。大通りに面した桜湯山茱萸である。江戸後期開業の古い温泉であった。木造つくりの部屋は落ち着きがありゆっくりした雰囲気であった。大浴場もよかったが、各部屋にある露天風呂も最高であった。夕食は、蔵王牛の炭火焼に舌鼓を打ち、山形の日本酒で歓談した。
 翌朝は、朝食後、桜で有名な烏帽子山公園の周辺を散歩した。御神坂口の階段の上の方に階段を立体交差する石造りのアーチ橋が見える。この橋は南陽市宮内の石工吉田善之助さんの弟子である川合兄弟 の作と言われている。
寺沢口から路地に入り温泉大通りに出て旅館へ戻る。準備を整えていよいよ出発。旅館から思いかけず車中で食べるおにぎりの差し入れがあった。車で赤湯駅へ。
 22日赤湯発13時10分の「つばさ84号」に乗車、福島で下車し、東京行きを見送ってから、「やまびこ51号」で仙台へ、さらに「こまち21号」に乗り換えて秋田へ、17時13分無事到着した。
 お天気にめぐまれ、楽しい思い出いっぱいの旅であった。万々のシルバーウイークの旅であった。


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